長崎市外海(そとめ)地方黒崎にあるキリシタン墓地を歩いていた時に見かけたひとつの墓石です。
キリシタン墓碑として特徴的な事ですが、墓石が寝かせてあります。この地方で採れる薄い石で作ってありますが、どうしたことか割れてしまっています。そしてその上には木の棒を重ねただけの十字架と最近備えられたと思わしき水瓶。
けっして立派とは言えないお墓ですが、このひとつの墓石は多くのことを語ってくるような気がしました・・・・
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場所は山の急斜面を切り開いた墓地ですが、ご覧の通り海岸線からはかなり山奥に入った場所にあります。その昔であれば、かなり人里から離れた場所であったことでしょう。
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ここ外海地方は長崎におけるカトリック信者のルーツとも言うべき場所ですが、ご存じの通りその信者たちの歴史は苦難に満ちたものでした。
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片岡 弥吉著 「長崎のキリシタン」には、その信者たちの信仰の在り方と受難の歴史を綴っていますが、その中でも読んでいて心が痛むほどむごい迫害というものは、幕府や政府の役人から受けたものではなく、この地方における近隣の郷民から受けたものでした。以下、部分を抜粋して紹介します。

『・・・明治2年11月25日、この6人と牧野の岩下助六ら6人、合計12人が、三重の横目役所に呼び出され、そのまま大村の牢に入れられた。ここではひどい算木責めの拷問を受けた。翌年の11月25日には、伝重の妻フク、娘カシ、弟の佐六ら黒崎と牧野からそれぞれ14、5人が大村の唐人牢につながれた。冬の真っ最中、壁板も何もなく着のみ、着のままで入牢したので、その寒さといったらない。食物も一日に玄米二合が一合になった。男子はひもじさに気を失うものもあり、乳児は火のついたように泣く。
 けれどもまた入牢者の家族たちが郷民から受けた迫害もひどかった。フク、カシら家族が入牢してから、残った子どもたち(伝重の家には8歳のカタリナゆさと5歳のマリアふみが、新平の家にはペトロ伊十とマリアふさという幼児がいた)、いたいけな子どもたちが小さな手でカマドの火をようやく焚きつけて飯を炊こうとしていると、どかどかと入り込んできて水をカマドにぶっかけて火を消す。朝起きてみると水ガメには大小便が入っている。壁や雨戸には石を投げつけ、夜中にはおばけのまねをしておどかし、家の中の米、麦、味噌、醤油何でも手当たり次第持ち出す。自分の山に落ち葉拾いに行けば、「黒の盗人!」と言っては追い返す。さらに生かしておいては自分たちの悪事がばれるとばれると言って殺してしまう計画さえしていた。牧野の鶴田八平の家は焼かれてしまい、岩下助六の家もほとんど倒れんばかりに荒らされた。家の中の物はもちろん畑の作物もすっかり掠奪されてしまった。・・・』

誤解を招いてはいけませんが、このような内容はこの地方特有のものだったということではなく、この時代、各地で行われていた迫害であり、蔑視であったと認識してもらえばいいのではないかと思います。そこには、人々が自由に土地を移動することを禁じられ、狭い土地の中で身分制度のもと縛り付けられていた、という時代背景を見逃してはならないと思います・・・・。
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それにしても、幼児や幼い子どもへのいやがらせ・攻撃というものは、かくも非情であり、むごい仕打ちかと憤りさえ感じます。そして現代でもなお「児童虐待」と名を変えながらその「歪んだ心」が発生しているという事実を考えると、私たちの心の闇には、今もなお戒めるべき非人道性が隠れているのだということを再認識しておく必要があるのかもしれませんね。そして今後いかなる時代が来ようとも、誓ってこの闇を封じ込めておくという強い決意も・・・・
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