長崎県松浦市・・・炭鉱全盛時の人口は昭和34年で44,800人。(現在は約24,000人)昭和20~30年代は他の採炭地と同じく全国より人が集まってきて活気がありました。

下図はその主な炭鉱所在地ですが、江戸・明治・大正と続いてきたヤマの歴史から見ると、その半分も記載されていないでしょう・・・。
しかし、佐世保市などと同じく、市中を巡っていても「炭鉱のにおい?」がほとんどしません。
これだけあった炭鉱と炭鉱町は一体、どこへ行ってしまったのでしょう・・?(地図はクリックで拡大)
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「炭鉱」というと、やたら労働現場や戦争中の歴史などが強調されるように思いますが、炭鉱の栄えた昭和20~30年代というのは、日本の歴史全体からみても「根深い差別を打ち破って、あたたかなコミュニティを築き上げた」すばらしい時代だった、と思うのです。
特に「ヤマは、一家族」と呼ばれた炭鉱町のコミュニティは歴史的にも価値の高いものだと考えており、そのことを少しでも後世に伝えたいと思っているのですが、都市部にあっては、「再開発」により、その痕跡も消滅しつつある、という現実に突き当たってしまいます・・・・

松浦市商工観光課発行の「炭鉱史」に紹介されている、「白山炭鉱住宅の跡」。
白山炭鉱は昭和28年、今福東免土肥浦に開坑。同33年には閉山となった昭和炭業の土肥ノ浦炭鉱五坑を買収。同39年12月に政府買い上げにより鉱業権消滅、閉山となっています。
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資料写真と一致する炭鉱住宅が残されていました。こういうことは非常に稀なケースです。
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しかし、同資料・「炭鉱住宅の現状」について見てみると、「白山炭鉱」が所有していた276戸の炭鉱住宅は全て撤去、とあります。かつての鉱員さん家族の「我が家」は閉山とともに故郷ごと消滅してしまう運命にあるわけですね。なんとも寂しい現実だと言わざるをえません。
しかし、上の資料には「白山炭鉱の住宅」とあります。これについては一段下の項「土肥の浦」の住宅344戸のうち、撤去332戸で12戸だけが残るとあります。つまり写真の住宅は、土肥ノ浦炭鉱時代に建てられ、白山炭鉱買収後も同鉱住宅として利用され、たまたま解体をまぬがれて今に至っていたというわけですね・・・。

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こういう風にみると、鉱業所も炭鉱町も無くなっても、たった1軒の住宅から炭坑時代の古き良き時代が見えてくる気がするから不思議ですね・・・・。

「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧

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(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月


*記事をご覧の皆様へ

皆様の心の通い合ったメッセージを拝読するたびに、「この記事を書いてよかった」と胸があつくなります。
やはり、故郷というものは、誰にとっても忘れることのできない、永遠のものであるということを教えてもらいました。
拙い記事ですが、これからも少しでも、皆様の旧交をあたためる場になれば幸いと願っております。
もし当時のお写真とか、記録など、何でもどういったものでも構いませんので、ございましたら、管理者まで、ご送付いただければ、記事の中に付け加えさせて頂ければと思っております。
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