小学生の頃から、被爆講話を聴くたびに考えてきたこと・・・。それは「原爆の落ちた浦上地区にいて負傷した人は、隣接する周辺地区へ這うように逃げていったのではないか。そしてここかしこで多くの人が亡くなったのではないか」ということでした。
それは後に、資料に触れれば触れるほど、その想像は「正解」であったことが明らかになります。

写真は西彼杵(にしそのぎ)郡長与町高田(こうだ)郷にあった「長与小学校高田分校」です。
浦上の北部に位置するこの小学校は、被爆直後、負傷者たちが集められた臨時救護所となり多くの重傷者で埋めつくされ、まさに地獄絵図のような状況となりました。福田須磨子さんの著書「われなお生きてあり」の中ににその時の様子が克明に記されています。
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現在の同じ場所です。山の稜線と変電所の位置から、この場所であることがわかります。それ以外には碑はおろか、まったく何の痕跡もありません。
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『・・・やっと道ノ尾の長与分校の校庭の傍らに来た。樹々の美しい緑を目にした時、急に目まいがして、気が遠くなりそうな自分を感じた。-しっかりせんば-私は自分に言いきかせながら門をくぐった。一歩入ると此処にもまた地獄絵図が展開されていた。校庭にはテントもなく重傷者がむしろの上にひしめき合うように寝かされ、唸りつづけているのだ。 ~中略~ ちょっと休んだ私と藤原さんは、すぐに負傷者の看護にとりかかった。尿意を訴えるものには、孟宗竹を切った筒にさせる。竹の筒は花生けだけに使うものだと思っていた私は、なるほどこんなことにも使えるのだと、変なところに感心する。突然、空白な時間からおどり出したように父母を哀れに思う気持ちがわいてくるのを覚えた。母が重病の時も、父が怪我して動けなかった時も、私はかつてこんなに優しく介護したことはない。母が便器を取って、と言った時、にべもなく、「きたなか」と言って母を泣かせたことが思い出される。今、どこの誰ともわからない人間たちの尿や大便を、別にきたないとも思わないでせっせと取ってやっている。ああ、もすこしやさしく看護すれば彼らはどんなに喜んだろうと、悔い切れぬ思いであった。
 治療といっても赤チンキを塗るだけである。包帯には膿がくっついている。それをバリッとはがす。ただれた皮膚に、ペタペタと赤チンキを塗る。別に蠅が飛んでいるわけでもないのに、どうしてだろう、包帯にも傷にもいつの間にか蛆がウジャウジャとうごめいている。汚れた包帯はバケツ二つにギュウギュウ押し込んでも山のようになる。それを下げて学校近くの小川に行く。小川の水は澄んでいて冷たく気持ちがいい。私はたんねんに包帯を洗う。時々、上空を敵機が通りすぎる。そのたびにはげしい恐怖が私を襲う。・・・・』(8月10日~その翌日より)


大正4年に創設され、原爆の歴史をも見守ってきた校舎でしたが、昭和42年に移転となっています。道・小川・線路を隔てた丘の上に見えるのが、現在の高田小学校です。
ちょうど付近では何を建てるのか、土地の造成工事中でした・・・
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移転後は転売され、商業用地となっているようですが、そのまま臨時救護所跡として保存するという選択肢はまったく無かったのでしょうか・・・。被爆者の高齢化が進み、戦争の生き証人が年々減っていく中、こういった歴史的に意味のある建物を保存しておくことは、後々きっと役に立つことになると思うのですが。
そうでないと、この場所を含め、そこかしこで亡くなっていった多くの犠牲者も救われないでしょう・・・。


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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月