正直言って、民俗学者の写真集を買ったのは初めてですし、今後このようなことはまず二度とあり得ない・・と思うのですが、それは宮本 常一(みやもと つねいち)さん(明治40年~昭和56年)の映っている写真を多く見てみたいと思ったからでした。
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まるで宮本さんの73年の生涯の7~8割?が笑顔であったのではないか?・・というくらい、笑顔の写真を残しています・・・。調査途中の昼食でしょうか?いい顔ですね。
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笑うと無くなる?目、その笑顔を向けられると、誰もが警戒心をといてしまい、それが民俗学の調査においては功を奏したのでしょうが、実はその笑顔の下には大変きびしい仕事への執着と男気が隠されていたようです・・・
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宮本さんは、若い頃肺結核にかかり生死をさまようという経験を持っています。教師となってからは比較的順調でしたが、退職後移り住んだ大阪府堺市の自宅は空襲により被災、家財道具から資料全てを失っています。
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戦後は生まれて間もない次男を亡くしたり、自身も肺結核を再発させるなどの紆余曲折を経ています・・
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73歳で胃癌により亡くなっていますが、その直前まで調査や講演を続けられています。
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とてもまとめきれないし、膨大な著書のうち、ほんの一部しか読むこともできていないので、箇条書きにして宮本さんの人柄というものを少し知ってほしいと思います・・・
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・山村や離島を調査する時は昼間極力歩いて集落をたずね、古老などに夜遅くまで熱心に話を聞いた。宿に帰ると、資料整理を明け方まで行った。そういった日々の連続であった。

・その身なりから、よく「富山の薬売り」と間違えられた。

・「話をしてくれた人はみな先生」という姿勢であったので、報告書に「話者○○氏」などと記してあると、「話者とはなんだ」と怒った。
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・年齢にも性別にも関係なく、情熱を持ってひとつのことに取り組もうとしている人を支援した。ダムで水没する地区の民俗調査などには支援を惜しまなかった。

・島の活性化の為に招かれたある漁港では、港がゴミだらけなのを見て、「掃除しろ!」と怒鳴った。また破れたするめを糸で縫い合わせていたのを見て、「そういう情けないことをするから、島の漁業がダメになるんだ」と叱ったこともあった。
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・国立大学などからの誘いをことわって武蔵野美術大学の教授となった。「美術大学なら権力者も出ないだろう」ということが理由のひとつだった。

・非常に多忙の身であったが、学生や仲間のお祝いや、宴の席には必ず顔を出した。
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教師であった宮本さんにとっても地域の大きな「希望」であったのが、子どもたちであったようです。これは昭和30年代に周防大島近くで宮本さんが撮った学校帰りの子どもたちの写真です。宮本さんはこの写真に「・・・人間にとってもっとも大切な素朴さが一人一人の中に生き生きとしているのを見た」という脚注を付けています。
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これも宮本さんの撮った中で好きな写真です。母マチさんと三男が海岸を手をつないで歩いている姿です。
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宮本さんが亡くなる寸前、最後に公の前で姿を見せたのが、山口県大島郡の屋代ダム水没地域民俗緊急調査中間報告会であった、ということも感慨深いものがありますね・・・・

宮本さんが残した膨大な著作をこれから少しずつ読み進め、新たな宮本さんに再度出会っていきたい、と思うのです。


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