長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日当日、国鉄長崎本線の前線基地となった「道ノ尾駅」から約150mの場所にあたるこの場所に、予備役海軍軍医・宮島 武中佐宅がありました。(現長崎市滑石1丁目・当時は滑石郷平宗地区)
3枚目の案内板にもありますが、当時この付近一帯に開業医などはいっさい無く、宮島宅も爆風により屋根、窓などは大破していましたが、中佐は自発的にこの場所で負傷者の治療を開始しました。
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しかし開業医と違って予備の薬品もなく、すべては自宅用の薬品を用いた医療活動でした。おそらく医薬品や包帯などは、あっと言う間に底を尽きたでしょう。それでも中佐の夫人を始め、長男及び次男の夫人、娘さんという一家総動員で救護にあたっています。「平宗仮治療所」と呼ばれた宮島宅周辺には市内から這うようにして避難してきた負傷者であふれ、中佐は次々と火傷の手当、ガラスの摘出、外傷の止血などの治療を行いました。
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この周辺では、治療のほどこしようもなく亡くなった人が大勢いたことでしょう・・・。
しかし、その鎮魂を示すものも、中佐とその家族の献身を後世に伝えるものも、正式には何もありません。
あるのは、滑石(なめし)中学校の生徒たちが立てた案内板だけです・・・
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同中学校の「志」と行いが、無ければとっくにこの「滑石臨時救護所(宮島宅)」は人々から忘れさられていたかもしれませんね・・・
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中学生たちが折ったであろう「折り鶴」だけが、唯一のなぐさめと励ましであるように見えました。
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宮島中佐の娘さんの当時の証言が長崎新聞社のHPにあるとの情報を頂きましたので、リンクを貼っておきます。


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*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月