長崎に原爆が投下された時、永井 隆博士自身は長崎大学病院で勤務中であり、重傷を負います。妻みどりさんは、爆心地に近い自宅で被爆、即死状態でした。
二人の愛児、誠一さんと茅乃さんは、爆心地から約4.5kmほど離れた、三ッ山(現・川平町)の家に祖母とともに疎開しており、難を逃れています。
(2階、右から2番目が茅乃さん、1階右の包帯を巻いているのが、永井博士)
koba832

その家は、現在跡形もなく無くなっています。そばに「第11医療隊救護所跡」の碑だけが人目につかず立っています。
その碑の後ろの石垣の上に、上の写真の家が建っていました。
DSCF5827

下は、男鹿 和雄さんが描いた、疎開先での誠一さんと茅乃さんのイメージ・イラストです。今、この地には、このような面影はまったくありませんが、66年前であれば、おおよそこのような場所であっただろうと思います。
(お婆さんの下方、石橋の下を流れているのが、二人の自宅付近まで続いていた浦上川です)
koba833




同じく男鹿 和雄氏が描かれた、浦上川で泳ぐ誠一さんと茅乃さんのイラストです。
1945年8月9日午前11時2分、浦上上空500mで原子爆弾が炸裂した時、イラストのように誠一さんは、川で泳いでいたそうです・・・
koba834

永井博士は大学病院で被爆直後から病院目指して、押し寄せてきた負傷者の救護にあたっていますが、一旦落ち着くと、この三ッ山の家を救護本部として、他の医師や看護婦たちとともに負傷者の救護・治療にあたりました。
それらの施設も何も残っていませんが、敷地を示す石垣だけが残っています。おそらく、そこら中に負傷者が横たわっていたのでしょう。
DSCF5821

碑の向こうに見えるのが井戸の跡です。
DSCF5824

碑の裏側の、ものすごく目に付かない場所に説明板があります。
DSCF5826

説明板にあるように、植えられた枇杷の木が、こんなにも大きく育っていました。
DSCF5825

石垣の上には、1枚目の写真の家のものであろう屋根瓦の破片が落ちていました。向こうに見えるのは、水瓶です。
DSCF5828

同地から、長崎市内方面を眺めた図です。正面の山の向こうには、ものすごく巨大なきのこ雲が見えたことでしょう。
3階建ての建物は川平小学校。見えている道路の手前に、浦上川が流れています。
DSCF5829

今は亡き二人にとって、この三ッ山から浦上川をたどって如己堂(自宅)までの道程というのは、遙かなるものであり、かつ重い重いものであったでしょう。そしてそれは、爆心地から這うようにして避難していった、多くの被爆者の方たちの辿った「命の道」でもあるのです・・・・。
koba835




人気ブログランキングへ

*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月