2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。
その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。

これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。

終戦をまたいで完成した65号棟。この頃はまだ小中学校も木造であり、島内最大の建物としての威容を誇っています。別名、「報国寮」と呼ばれました。
ボイラー煙突から吹き出す煙が、「軍艦島」らしさをいっそう引き立てていました。
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9階建ての65号棟。コの字型をしていますが、画面右側白い建物部分である新棟が増設されるまではL字型をしていました。
そして、コの字型の中には、児童公園がありました。
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向かいには、鉱員宿舎である66号棟があります。
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当時の児童公園の様子です。
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こんなにも常に、大人の目が行き届いた遊び場はありませんね・・・
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子どもたちの遊び声や物音は、アパートの住人たちにとっては、「活気」そのものだったでしょう。
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その活気は、公園だけでなく、各棟の屋上や通路などにも溢れていたわけですが・・・
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ここから「ご飯やけん、帰ってこんね~!」と叫んだお母さんも多かったことでしょう。また、コの字型になっていましたから、携帯なんかなくても、すぐ他のお母さんと連絡などができたでしょう。
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9階建て(新棟10階建て)ですが、エレベーターはありませんでした。しかし、それがかえってコミュニティには幸いしました。上の階は、眺めや陽当たりはいいけれど、風の強い日は怖いし、多くの段を上らなければならなかった。下はその逆の条件で、一長一短だったわけですね。
また、棟内の階段は、画像のように幅が広く段差の小さい、ヒトにやさしいものでした。この階段を水道のない時代には、水桶をかついで水を運んでいました。また、多くの住人たちが病気や怪我の子どもやお年寄りを背負って上り下りしていたことでしょう・・・。
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部屋からもオーシャン・ビューですが、台風並みの大風の時には、9階のベランダにも波しぶきが落ちたといいます。沖に見えるのは、高島の二子島です。
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棟内の通路。路地のように広く、荒天時には、子どもたちの遊び場になり、また生活の重要な場ともなりました。
時には、こういったスペースで露天商が、お店を広げることもあったそうです。
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風が強いと潮で洗濯物が干せないので、通路にも物干し台がありました。また、雨戸や防潮扉など、コンクリートの中に多くの木材がつかわれていました。これは、潮による錆びを防ぐ目的があったのですが、このことが、住居に暖かみを与える結果となりました。
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そして65号棟の屋上、10階部分に端島幼稚園、保育園がありました。
これは、その入り口です。初めて登園した幼い子どもには、水色に塗られているとは言え、この格子扉が少し怖かったようですね。
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園内に残る水槽の跡です。島内には、「淡水魚」というものが、いなかった為か、この水槽で金魚やフナが飼われていたそうです。
窓外、遠くに竪坑やぐらに向かう為の桟橋跡が見えています。やはりここからも、父親たちの働く職場がよく見えていたわけですね・・・
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幼い子どもたちが、エレベーターもない10階まで毎日登園していたというのは、驚きです。
画像は、神社から見た65号棟ですが、中央岩盤途中から同棟に連絡通路が架かっているのがわかります。島内の子どもたちは。こういった通路や階段を使いながら通っていたわけです。
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そして、軍艦島のひとつのシンボルとも言えるのが、屋上園庭に残された滑り台です。ご覧のように滑り降りた所に水が溜められる「ウォータースライダー式」になっていました。
さすがにこの場所、風雨も強く、支えの鉄柱もボロボロになってしまっていますので、この滑り台もいつまで立っていられるか、わかりません。
また、この滑り台、上陸用のドルフィン桟橋の一部からもかろうじて見えますので、行かれるようなことがあれば、是非確認してみてください。
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そしてその滑り台を見るとき、そこにいた多くの子どもたちの姿をちょっと想像してみてください・・・
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