潜龍鉱について、岩下地区など一度記事を書いた(こちら)のですが、記事が雑であったため、補足の意味を兼ねて、もう一度書きたいと思います。
吉井町において日窒江迎鉱とともに、二大炭鉱のひとつとして、同町の繁栄を支えた炭鉱であった潜龍鉱。
その坑口跡には、記念碑が立っています。そう言えば、同じ住友の芳ノ浦鉱跡(佐々町)にも立派な記念碑が立っていました。
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在りし日の潜龍鉱施設
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「住友潜龍炭鉱略歴」

(昭和9年8月)
本坑開坑。

(昭和24年5月)
天皇陛下の行幸を仰ぐ。

(昭和25年)
坑内電車を開通し、鉄製2トン炭車を使用。

(昭和26年頃)
最盛期。広大な敷地に、病院、結核療養所、映画館、保険館労働会館、幼稚園、理髪所、テニスコート、弓道場などの施設を備えていた。

(昭和28年3月)
団交において、労組「カッペ(鉄製支柱)を従来の木柱に取り替え要求。-その理由として、木柱は過重な荷が来るとメリメリと音をたてるので、逃げる余裕があるが、カッペはそれがなく、急にくる」等

(昭和28年6月)
潜龍と芳ノ浦で180人の整理。首切りをおそれ、出稼上昇。

(昭和35年9月)
閉山。第二会社の潜龍炭鉱(株)発足。

(昭和42年8月)
閉山。施設は次々と片づけられ、さびしい終末となった。

当時の鉱員社宅(炭鉱住宅)。田ノ元か、岩下地区と思われますが、定かではありません。
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現在の潜竜団地あたり。町営住宅となっている住宅は、炭鉱時代からのものかと、思うのですが、地元の方の話では、閉山後に建設されたものだと・・・
しかし、この長屋の並び方は、炭鉱住宅特有のもので、敷地自体は当時のままなのでしょうね。
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ここにも、やはり炭鉱時代の大きな消火栓が残っています。(画面右下)
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少し離れた場所。人んちを失礼なんですが、この木造のおうちは、リフォームしてありますが、おそらく炭鉱住宅時代の造りのままでしょう・・・
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アパートの扉に貼ってあった園児募集の貼り紙。潜竜教会の隣にある宮崎カリタス修道女会潜竜修道院と同会が運営する潜竜聖母幼稚園のものです。こういうものを見ると、ほっとしますね・・・
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かつて潜竜駅構内にあったという強大な積み込みホッパー。今では想像すらできません。
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しかし今でも、松浦鉄道・潜竜ヶ滝駅の線路脇には、石炭片が転がっています・・・
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以前の記事の頃は、「ボタ山が残ってるか?」なんてことを書いてますが、あれから、かつての炭鉱町を歩いてきて思うことは、そこら中に炭鉱町のものが残っている・・・ということです。

地元の方は、必ず「なんも残っとらんよ」と言われます。しかし、歩いてみれば、必ず残っています。そう簡単に50~80年くらい前のものが消えるわけがないのです。

一番に残っているのは、石炭片だと思います。これが最も確実な物証ですね。
二番目に消火栓でしょうか。三番目は住宅。街の構造そのものと言うか。

でも。もっとも残っている・・と言えば、それはヒトの記憶の中かもしれません。かなりの確立で、当時のお話を聞くことができます。
そして、その話は、ほとんどが「活気があって、よかった」というものであるように感じます。



2015年、この街に住んでおられた方から貴重なコメントをお寄せ頂きました。当時の様子を綴った内容は、今となっては貴重な記憶と思いますので、失礼ながら記事に付け加えさせて頂きました。ありがとうございました。

『 私は昭和16年に炭住の龍見町で生まれ、吉井町の松原町に引っ越し、昭和25年か26年に父親が希望退職後は岩下町で雑貨店をやっていました。(父親は労務に勤めていました)

 聖母幼稚園のすぐ上になります。映画館や病院、大きな風呂のことをよく覚えています。31年には潜龍を離れ36年に現在の愛知県に出てきました。田ノ元の賑やかだったころはよく覚えています。

 もう両親も他界し親戚があるのでたまに帰省しておりますが、その時は潜龍ケ滝と松原町に必ず寄って昔のことを懐かしく思っています。

 実は終戦当時、捕虜収容所があって父はその人達に仕事をやらせていてその人達が帰国する前な何人か自宅を訪ねてお別れに来たことがありました。以前にどこかの記事てその捕虜収容所のことがみたことがありました。 』




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