石炭を運び出す過程において、電気はおろか、蒸気機関さえまともにない時代、頼りになる労力とは、「人」と「馬」でした。
特に資本力の無い中小鉱では、運炭を馬車や馬による軌道輸送に頼るしかありませんでした。
こうして多くの馬たちが炭鉱で石炭を運ぶ為に使われていました。
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掘った石炭も、出荷しないと意味がありません。石炭を積み出すことの出来る港まで何キロもある道程を一日、何往復もすることになります・・
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もともと対州馬は小柄な割りに力が強く、足腰も丈夫であり、写真のように草をはんでいる時に、子ども一人くらい乗ったとしても、まるで気づかないような頑強な体をしています。
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しかし、小柄で力が強く、おまけに従順で粗食に耐える・・・という対州馬の特性は、天井が低く、足場も悪いという炭鉱には、うってつけの馬でもあったわけです。
こうして対州馬に限らず小柄で丈夫な在来馬たちが、炭鉱に送られたことは、想像に難くないところです。
しかし、まだ坑口付近や地上において使われた馬たちは、まだましな方であったと言わざるをえません。
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もっとも哀れであったのは、地下数百メートルも下の、水平坑道内にいた馬たちでした。そこで石炭を運んでいた馬たちは、ほぼ死ぬまで地上に戻ることが出来なかったといいます。
つまり、気温40℃前後、湿度100近く・・という環境の中で昼も夜もなく、ずっと働かせられ続けたわけです。
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人であれば、苦情も言えるし、やめたいと言うこともできるでしょう。
哀しいのは、いろんな年表を調べてみても、坑内の馬が暴れたとか、人を襲った等という記事は見つからなかったことです。
ただ昭和の初め頃、「馬の代わりにコンベアなどが使われだした」というような一文が載っているだけです・・・
(写真は坑内の厩舎)
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そして、このブログの説明文の中に出てくる「炭鉱」「対州馬」と「カトリック」の3つのものは、宿命的とも言えるような、つながりを持っています。

「福岡の金持ち商人にはサジ投げたザビエルは、農漁村の民の間に友を見いだした」という言葉が残っているようですが、もともと長崎の炭鉱地帯にはカトリックの教会があったこともあり、多くの炭鉱マンたちが信者になったと資料にあります。
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鹿町炭鉱の社宅とカトリック教会
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しかし、明治6年のカトリック禁制の高札撤廃までは、カトリック信者たちにとって炭鉱は、もっとも過酷な労働の場のひとつでした。

これを労働と言っていいものか、苦慮しますが、キリシタン弾圧が激しかった頃、佐賀藩領の外海や深堀藩のカトリック信者たちは、高島などの炭鉱に送られ、過酷な労働を強いられました。その信者たちは、炭鉱での重労働の後、昇坑してからは、改宗を迫る役人から、算木責めや青竹でのめった打ちなど、はげしい拷問を受けています。(片岡 弥吉著 「長崎のキリシタン」による)おそらく、まともな食事も与えられなかっただろうと思います。

炭鉱の馬たちも然りですが、こういった炭鉱でのカトリック信者のことは、一切記録には残っていない歴史の一部であることは、言うまでもありません。
そのことは、このブログを書いている私自身もちゃんと認識しておかなければならないことだろうと思っているのです・・・・。

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