日炭 相浦炭鉱跡か?・・・と思ったりもしましたが、相浦鉱はもっと棚方町よりであったようですし、いつの時代のものか、まだ確証がつかめてません。
というのも、ここ真申(まさる)付近というのは、長崎の高島に負けず劣らず・・というぐらい炭鉱に関して歴史の深い所ゆえ、決め手?がないのです・・・
昭和57年に撮られた空撮では、真申駅付近に、貯炭場と炭鉱施設らしき建物(画面右下、オレンジの屋根付近)があったことが、よくわかります。
真申499

オレンジの辺りから山道を登ると、すでに建物は無くなっていますが、その敷地とレンガ塀が残っています。
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すでに道も消え入りそうになっていました。
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小径は、従業員や作業員が、宿舎と貯炭場などを移動する際に使われたものでしょう。
山を下りきると、かつて炭車を通していたと見られる小さなトンネルが残っています、幅や高さから、これが鉄道や送水管のためのトンネルでないことは、容易にわかります。
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高さや幅からいって、おそらくは石炭を輸送した軌道の跡でしょう・・・・
さて、やっかいなのは、この施設の特定です。

真申にある佐々港は佐々川の河口にあり、上流には多くの炭鉱があったので、団平船の時代から、積出港としてずっと石炭が積まれてきました。
佐々の芳ノ浦炭鉱や世知原の松浦炭鉱の記録にも、佐々港より石炭を船積みしていた時代があったと記載されています。
すぐ近くには「にっぱつ」と呼ばれた、日本発送電(株)の石炭による火力発電所があったので、尚更この地には、石炭が集まってきたわけです。
他の記録には、昭和25年、日発相浦の貯炭が1万トンを越え、その温度が80~90度と発火寸前になったため、松浦、新松浦、山住、御橋の各炭鉱からの受け入れを停止したとあります。
・・・となると、このトンネルは日発側に輸送するためのものである可能性も高いと言えます。
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芳ノ浦炭鉱の積み出し港であった時代の様子です。港が浅瀬であった為、団平船で沖の貨物船まで運んだ・・・とあります。
真申川539

トンネルを過ぎると、佐々港に着きます。
もともとこの辺りは、佐世保市編入前、山口村真申となっていました。
石炭に関する歴史が古く、嘉永5年(1852)、草刈太一左右衛門という人物が石炭の採掘と同時に海岸の埋め立てを行ってきた場所でした。
それゆえ、近代まで数え切れない程の炭鉱が出来ては、消えていっています。
現在の港は、その貯炭場の跡が、はっきり残っているものの、港としてはほとんど利用されていないように見えました。
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現在は九州電力の敷地となっているので、立ち入りは制限されています。
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その周りには、有刺鉄線が残っており、独特な景観をつくっています。貯炭場ということで、盗難をふせぐ為なのでしょうか・・・あるいは、発電所時代に、危険回避のためのものかもしれません。
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昭和43年に真申駅あたりから撮影された日発の3本煙突です。手前の黒っぽいのは炭車でしょうか?
日発581

ちなみに相ノ浦炭鉱は、昭和14年に、日産化学工業(株)が二坑、開坑しています。
同24年には日本炭鉱(株)が相浦炭鉱として五尺坑を開坑したとありますが、残念ながら、それ以上詳しい資料が見つかりません。

昭和57年の空撮で、真申駅の北側、炭鉱住宅のあった地区をみると、オレンジの屋根のすぐ横にまだ、石炭だかボタだかが積んだままになっています。
また昭和23年に撮影された国土地理院の空撮では、画面中央付近の白っぽい部分に日発らしき巨大煙突が写っており、その北側住宅のあたりは、一面石炭の山となっています。となると、時代的にも、日発の関連した遺構である可能性が高いわけですが、古い時代からあるものでは無い・・・とも言い切れないところです。
masaru

オレンジの屋根は、保育園です。ボタ山は、有害なガスを出さないとも限らないですから、やはり場所がら、すっかり撤去されたようですね。
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職員住宅街もすっかり、新しい家に建て変わっているようですが、この並び方が、当時の長屋の跡をとどめている・・・と言えば、そうかもしれません・・・

いずれにしても、ここ真申付近は、まだまだ調べていかないと、全貌は見えてこない・・・という気がしています。
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