神田(こうだ)炭鉱は昭和13年に日鉄(日本製鉄鉱業株式会社)が静鉱業から買収した後、機械化を進め発展しました。
病院・映画館・独身寮などを備え、最盛期には職員69人、鉱員328人となり、近くの江里炭鉱とともに付近に多くの人口を抱え、商店街ができ、神田小学校が新設されるほど、この神田地区は賑わいました。
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町史を見ると、現在の松浦鉄道・神田駅付近には、神田、江里の他、報国、南山、鴨川、佐々、吉丸・・といった炭鉱が見えます。
炭鉱町時代の賑わいが、この図一枚からも十分伝わってきます・・・・
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炭鉱町の子ども達が大勢通った神田(こうだ)小学校です。
炭鉱の隆盛に伴って昭和27年に新設され、最盛期には1,000人近い生徒を抱えましたが、相次ぐ閉山の中(神田鉱36年閉山)、惜しまれながら、同41年に佐々小へ合併・閉校となっています。
現在、敷地には堀田(株)長崎工場及び佐々自動車整備協業組合がありますが、校門であった石柱だけが、残されています。
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松浦鉄道・神田駅から車で数分走った道路脇に、かつての神田炭鉱の変電所が残されています。
ツタがからまって、一見、建物とは思われないような状態となっていますが・・・
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屋根は完全に抜け落ちてしまっていますが、さすが炭鉱の建物らしく、周囲の壁はがっちりとできているようです。
しかし、ご覧のように、ここも何の整備もされておらず、案内板一枚ありませんでした・・・勿体ないことです。
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すぐ隣にあるのは坑口跡です。こちらも周りの木造部分は朽ち果てていますが、コンクリートの部分は大変しっかりしています。
県の教育委員会が作成していた資料では、ここが「鉱員の入坑口」とありましたが、構造的に人道坑とは考えにくい気がします。
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坑口前に開いている大きな丸い空間は、おそらく坑内に空気を送るための送風機のファンがあったと考えられます。
上の写真に見られる四角い煙突のようなものから、空気を取り込んでいたのでしょう・・・・
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数十メートルほど離れた田のわきに、もうひとつ坑口が残っています。教育委員会資料では、これが「通風用の坑口」とありますが、こちらの方が鉱員用の入坑口(斜坑)か、出炭専用の坑口でしょう・・・
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街の中心であった「神田駅」も、今では畑の中に、それこそ案山子のようにポツンと残された感があります。
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駅前には、今も数棟だけ炭鉱住宅が残されています。
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↓画像は昭和26年頃、佐々駅付近を走る8620型蒸気機関車です。当時は石炭を満載した貨車を引いて、ひっきりなしに走る姿がこの辺りで見られたことでしょう。
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その往時をしのばせるものが、神田駅から少し離れた場所に残っています。それは、この駅が大きな駅だった時代のホーム跡です。
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使われなくなったホームには、しだれ桜?がうなだれて立っていました。軌道のあった場所にも桜が植えられているようです・・・
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ホーム上を歩いてみると、やはり小さな石炭のかけらが所々に落ちていました・・・
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今やひとつ前の駅、「青峰高校駅」の「青峰高校」は同校野球部の甲子園全国優勝のため、全国的にも有名になりましたが、となりの「神田駅」に、これほどの歴史遺産がのこされていることが、あまり知られていないことを残念に思います・・・・。

神田炭鉱の遺構の場所です




「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧


(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月