1000記事目ということで、少々厚みのあるやつを書こうと思います。
どんどんスクロールしてください!
軍艦島ツアー・ガイドをいったんやめる時に思ったのは、「一度高島をじっくり歩かないといけない!」ということでした。・・・というのも、ツアーでは軍艦島上陸前、高島に寄って石炭資料館を案内するのですが、時間が正味15分くらいで、あまりに駆け足なので、どちらかというと「軍艦島上陸前のWCと水分補給、そして喫煙タイム」といった感じでした。
その上、ゲストを盛り上げるために、高島についてのジョークもとばしていたので、心中では、「これじゃいかん」という思いがありました。
船を降りた翌日、ともかく島を歩いてみることにしました。
上陸後、看板を見て、自転車を借りることに。電話すると、店の前にあるから、適当に選んで乗っていけ・・・と。ほとんど借りる人もいないのか、まともに動きそうなのは、7~8台のうち、2台くらいでした。
ツアーでも説明していましたが、これが高島に一個所だけある信号機です。ほとんど必要がないように見えますが、実はこれ、島の子どもたちの教育用の信号なのです。
歩き始めると、すぐにかつての炭鉱町の名残・・・つまり空き地の間に階段や通路だけが残っているという景色にえんえん出合います。
岩崎弥太郎が、この島にあった炭鉱を買収し、T・グラバーの助力を得て、近代化に成功。今ある「三菱」の始まりの島とも言えるこの高島は、最盛期には15,000以上の人口を抱える、昼も夜も賑わいの絶えない島でした。
かつての共同浴場が、草むらの中に、ひっそりと残されていました。
浴場の上方には、蛎瀬アパートが見えています。アパートとは言え、まだお風呂のついていない時代でしたから、この浴場も多くの人で賑わったことでしょう・・。
教会が見えたので、坂の小径を上ってみます。
高島カトリック教会です。
付近の小径を歩いていると、一匹のニャンコと目が合いました。「ニャンだ、お前は?」というように、こちらを見ています。
そのニャンコがガイドをつとめてくれたのが、付近にある、この空き地です。住居の名残が一部、残っていました。これは台所の水まわりですね。
そして、これは、どうやらWCとお風呂のようです。
で、これが玄関の敷石のあと・・・。
家は、こういう場所に立っていました。なるほど、台所の窓から、港がよく見えるようになっています。(ニャンコ・ガイドは日陰で待機しております)
夕げの支度をしながら、だんなさんの船が帰ってくるのが、よく見えるような構造になっていたわけですね。
古い港町の家というのは、こういう夫婦をつなぐ「夫婦窓」があったというのを聞いたことがあります。
だんなさんからも、家の灯が、遠くからもよく見えたことでしょう・・・
家の前の通路には、水を流すための溝がきってあったり・・・ひとつの空き地から、いろいろな、かつてのヒトの暮らしが浮かんできました。ニャンコくん、ありがとう!(ちっちゃく写ってます!)
移転した、高島小中学校です。この時は、運動会前の練習なのか、全校児童がグラウンドへ出ていました。保育園のこどもを加えても10人あまりしか姿がありません。トラックがやけに広く見えるのも、さびしく見えます。
これは蛎瀬保育園の写真です。蛎瀬地区だけでも、これだけの園児がいたわけです。
かつての商店街跡です。
こういう画像を掲載するのは、正直胸が痛いです。ただし、このような状況は、ここ高島に限らず、日本全国の地方で似たようなものであると思うのですが・・・・。
三菱高島鉱業所の2個所の坑口のうちの1つ、蛎瀬(かきせ)坑跡です。施設はすべてなくなっていますが、まだ辺りには石炭片が散らばっています。遠く沖合に軍艦島が見えています。
かつての蛎瀬坑・竪坑やぐらです。この場所も定かではありませんが、フェンスで囲まれた場所が、おそらくその場所であると思われます。もちろんフェンス内には何にも見えません。(画像は現在ではありません)
蛎瀬から、もうひとつの坑口、二子(ふたご)坑のあった場所への道路です。
この道は、かつて蛎瀬街道と呼ばれ、軌道が敷設され、通勤電車や石炭を運ぶ貨車が走る時代もありました。
このあたりからは、軍艦島と中ノ島がよく見えます。昭和49年までは、夜ともなると、光り輝く「不夜城」が、お互いによく見えていたことでしょう。
その先に見えてくるのが、7階建てというのに、エレベーターのない高層アパートです。
しかし、住んでおられるのは、ご覧の通り、3~4階までで、空室となっている場所には、板が打ち付けられています。つまり、これ以上人が転入してくる見込みが非常に薄いということを示しています。
掲示板ドアには運動会の案内チラシが貼ってありました。住人みんなが参加して盛り上げる運動会になっているわけですね。
ちなみに、この運動会の日は、よいお天気でしたので、大変賑わっただろうと思います!
二子坑の坑口跡です。コンクリート製の坑口付近が残っています。
そろそろ島を一周します。このあたりは、光町と呼ばれ、多くの炭鉱住宅や鉱員アパートが立ち並んでいた場所です。
遠くに見えるのが、かつての二子坑・竪坑やぐらです。
現在、この場所には、比較的新しい時代のアパートが立っています。天気がよいので、ふとんがたくさん干されています。
かつての鉱業所の事務所あとを改造した石炭資料館です。そしてここは、半年の間説明を行った場所です。
現在では、完全に軍艦島の陰に隠れる・・・といった状態に置かれている高島ですが、いつか必ず、この島が注目される時が来るだろうと思っています。
そしてまた、いつかこの島をゆっくり歩いてみたいと思っています。きっと、また新たな発見があるだろうから・・・。
長々とお付き合い、ありがとうございました!
「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
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軍艦島ツアー・ガイドをいったんやめる時に思ったのは、「一度高島をじっくり歩かないといけない!」ということでした。・・・というのも、ツアーでは軍艦島上陸前、高島に寄って石炭資料館を案内するのですが、時間が正味15分くらいで、あまりに駆け足なので、どちらかというと「軍艦島上陸前のWCと水分補給、そして喫煙タイム」といった感じでした。
その上、ゲストを盛り上げるために、高島についてのジョークもとばしていたので、心中では、「これじゃいかん」という思いがありました。
船を降りた翌日、ともかく島を歩いてみることにしました。
上陸後、看板を見て、自転車を借りることに。電話すると、店の前にあるから、適当に選んで乗っていけ・・・と。ほとんど借りる人もいないのか、まともに動きそうなのは、7~8台のうち、2台くらいでした。
ツアーでも説明していましたが、これが高島に一個所だけある信号機です。ほとんど必要がないように見えますが、実はこれ、島の子どもたちの教育用の信号なのです。
歩き始めると、すぐにかつての炭鉱町の名残・・・つまり空き地の間に階段や通路だけが残っているという景色にえんえん出合います。
岩崎弥太郎が、この島にあった炭鉱を買収し、T・グラバーの助力を得て、近代化に成功。今ある「三菱」の始まりの島とも言えるこの高島は、最盛期には15,000以上の人口を抱える、昼も夜も賑わいの絶えない島でした。
かつての共同浴場が、草むらの中に、ひっそりと残されていました。
浴場の上方には、蛎瀬アパートが見えています。アパートとは言え、まだお風呂のついていない時代でしたから、この浴場も多くの人で賑わったことでしょう・・。
教会が見えたので、坂の小径を上ってみます。
高島カトリック教会です。
付近の小径を歩いていると、一匹のニャンコと目が合いました。「ニャンだ、お前は?」というように、こちらを見ています。
そのニャンコがガイドをつとめてくれたのが、付近にある、この空き地です。住居の名残が一部、残っていました。これは台所の水まわりですね。
そして、これは、どうやらWCとお風呂のようです。
で、これが玄関の敷石のあと・・・。
家は、こういう場所に立っていました。なるほど、台所の窓から、港がよく見えるようになっています。(ニャンコ・ガイドは日陰で待機しております)
夕げの支度をしながら、だんなさんの船が帰ってくるのが、よく見えるような構造になっていたわけですね。
古い港町の家というのは、こういう夫婦をつなぐ「夫婦窓」があったというのを聞いたことがあります。
だんなさんからも、家の灯が、遠くからもよく見えたことでしょう・・・
家の前の通路には、水を流すための溝がきってあったり・・・ひとつの空き地から、いろいろな、かつてのヒトの暮らしが浮かんできました。ニャンコくん、ありがとう!(ちっちゃく写ってます!)
移転した、高島小中学校です。この時は、運動会前の練習なのか、全校児童がグラウンドへ出ていました。保育園のこどもを加えても10人あまりしか姿がありません。トラックがやけに広く見えるのも、さびしく見えます。
これは蛎瀬保育園の写真です。蛎瀬地区だけでも、これだけの園児がいたわけです。
かつての商店街跡です。
こういう画像を掲載するのは、正直胸が痛いです。ただし、このような状況は、ここ高島に限らず、日本全国の地方で似たようなものであると思うのですが・・・・。
三菱高島鉱業所の2個所の坑口のうちの1つ、蛎瀬(かきせ)坑跡です。施設はすべてなくなっていますが、まだ辺りには石炭片が散らばっています。遠く沖合に軍艦島が見えています。
かつての蛎瀬坑・竪坑やぐらです。この場所も定かではありませんが、フェンスで囲まれた場所が、おそらくその場所であると思われます。もちろんフェンス内には何にも見えません。(画像は現在ではありません)
蛎瀬から、もうひとつの坑口、二子(ふたご)坑のあった場所への道路です。
この道は、かつて蛎瀬街道と呼ばれ、軌道が敷設され、通勤電車や石炭を運ぶ貨車が走る時代もありました。
このあたりからは、軍艦島と中ノ島がよく見えます。昭和49年までは、夜ともなると、光り輝く「不夜城」が、お互いによく見えていたことでしょう。
その先に見えてくるのが、7階建てというのに、エレベーターのない高層アパートです。
しかし、住んでおられるのは、ご覧の通り、3~4階までで、空室となっている場所には、板が打ち付けられています。つまり、これ以上人が転入してくる見込みが非常に薄いということを示しています。
掲示板ドアには運動会の案内チラシが貼ってありました。住人みんなが参加して盛り上げる運動会になっているわけですね。
ちなみに、この運動会の日は、よいお天気でしたので、大変賑わっただろうと思います!
二子坑の坑口跡です。コンクリート製の坑口付近が残っています。
そろそろ島を一周します。このあたりは、光町と呼ばれ、多くの炭鉱住宅や鉱員アパートが立ち並んでいた場所です。
遠くに見えるのが、かつての二子坑・竪坑やぐらです。
現在、この場所には、比較的新しい時代のアパートが立っています。天気がよいので、ふとんがたくさん干されています。
かつての鉱業所の事務所あとを改造した石炭資料館です。そしてここは、半年の間説明を行った場所です。
現在では、完全に軍艦島の陰に隠れる・・・といった状態に置かれている高島ですが、いつか必ず、この島が注目される時が来るだろうと思っています。
そしてまた、いつかこの島をゆっくり歩いてみたいと思っています。きっと、また新たな発見があるだろうから・・・。
長々とお付き合い、ありがとうございました!
「軍艦島・西彼炭田の炭鉱」 記事一覧
いつもこのブログを楽しく拝見しています。
炭坑やそこに暮らした人たちに対する理解の深さに感動すると共にとても親しみ感じています、
僕は1965年に高島で生まれました、
父は高島鉱業所で採炭の仕事をしていました。
社宅は記事の中にある、蠣瀬商店街のすぐ近くの蠣瀬1号アパート(昭和27年建築)でした。
端島のように騒がれることもなく、
伊王島のようにリゾート化される事もない
静かになった今の高島も、僕は好きです。
是非いつか、お時間がありましたら、
江島様と高島をのんびり歩きながら
炭坑の話や町が賑やかだった子供の頃の話など
島の思い出なんかをお話しできたらいいなと、
かってに思っております(笑)。
これからも、楽しく懐かしい記事を
楽しみにしております、
暑い夏が続きますが、お体を大事に
お仕事頑張ってください!。