江迎町(旧北松浦郡、現佐世保市)にあった主な炭鉱は次の2鉱。(明治~昭和初期には10前後の中小鉱がありました)
猪調(いのつき)免にあった日窒鉱業の江迎炭鉱と田ノ元免にあった住友石炭鉱業の潜龍炭鉱。
平成14年発行の長崎新聞社刊「長崎県万能地図」では、同町内に3ヶ所の「ボタ山」が記載されています。
今回は、そのボタ山が現在もまだあるかどうか、を確かめに行きました。
潜龍ヶ滝近くにボタ山の記載があります・・・が、まったく確認のできない状態でした。ボタ山特有の形をした50~100m位のヤマを探しますが、いずれも決め手がありません。また残されていたとしても、おそらく樹木に覆われてしまっているでしょう。川の上流付近にあったことを考えると、災害に備えて撤去されてしまった可能性の方が強いと思います。なにせ、ここ潜龍炭鉱では昭和37年に起きた「ボタ山の崩落事故」で、甚大な被害を出した場所でもありますので・・・・。
これは潜龍炭鉱があった時代の岩下地区の炭鉱住宅街の写真です。左手奥に見える尖塔はカトリック潜龍教会です。
現在の同地区の様子です。潜龍教会は平成18年に建て替えられています。
かつての炭鉱町。建物はすっかり変わってしまっていますが、当時の雰囲気はまだ十分に残っています。
そのひとつが、このプールです。まだ現役かどうかはわからなかったのですが、こんな山間の場所にしては不釣り合いな感じです。この場所がかつて大変賑わっていた場所で、子ども達も多かった・・ということを示しています。
このプールもいつかは取り壊されてしまうのでしょうか・・・・・。
このプールに子ども達のにぎやかな声が飛び交っていた光景が目に浮かびます。
潜龍ヶ滝駅付近にも「ボタ山」の表示があります。こちらは、近くの商店の人にたずねてみると、だいぶ前に撤去されたとのこと。やはり・・・ですね。
この付近にあったそうです。
これは江迎炭鉱の猪調商店街の写真です。こちらも多くの商店が建ち並び、多くの人で賑わっていました。
現在、この賑わいを示すものは残っていませんが、付近にある猪調小学校は大変立派な校舎を持っています。
2016年9月、以下のような貴重なコメントを頂きました。当時のことを探している方々には非常に貴重な資料となるとおもいましたので、リンク貼らせて頂きます。宜しくお願いいたします。
潜龍の炭鉱の昭和30年頃の炭住・社宅、ボタ山、今はなくなった町名がわかる地図が記載されている資料があります。
”北松炭田における炭鉱集落の形成と区間構成に関する事例研究”
で検索してみて下さい。この資料(論文)には図があり、この図に当時の町名、炭住の位置、ボタ山の場所等が記載されていて、昔を思い出すのに役に立つと思います。
これは九州大学、九州大学 大学院人間環境学府の修士論文の
一つです。もし、上記の検索でわからなければ九州大学・大学院人間環境学府
のホームページから探して下さい。
修士論文
都市共生デザイン専攻
野口 雄太
論文題名
”北松炭田における炭鉱集落の形成と空間構成に関する事例研究 -大手2鉱が隣
接して開発した猪調地区を対象として-”
北松炭田における炭鉱集落の形成と区間構成に関する事例研究
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
猪調(いのつき)免にあった日窒鉱業の江迎炭鉱と田ノ元免にあった住友石炭鉱業の潜龍炭鉱。
平成14年発行の長崎新聞社刊「長崎県万能地図」では、同町内に3ヶ所の「ボタ山」が記載されています。
今回は、そのボタ山が現在もまだあるかどうか、を確かめに行きました。
潜龍ヶ滝近くにボタ山の記載があります・・・が、まったく確認のできない状態でした。ボタ山特有の形をした50~100m位のヤマを探しますが、いずれも決め手がありません。また残されていたとしても、おそらく樹木に覆われてしまっているでしょう。川の上流付近にあったことを考えると、災害に備えて撤去されてしまった可能性の方が強いと思います。なにせ、ここ潜龍炭鉱では昭和37年に起きた「ボタ山の崩落事故」で、甚大な被害を出した場所でもありますので・・・・。
これは潜龍炭鉱があった時代の岩下地区の炭鉱住宅街の写真です。左手奥に見える尖塔はカトリック潜龍教会です。
現在の同地区の様子です。潜龍教会は平成18年に建て替えられています。
かつての炭鉱町。建物はすっかり変わってしまっていますが、当時の雰囲気はまだ十分に残っています。
そのひとつが、このプールです。まだ現役かどうかはわからなかったのですが、こんな山間の場所にしては不釣り合いな感じです。この場所がかつて大変賑わっていた場所で、子ども達も多かった・・ということを示しています。
このプールもいつかは取り壊されてしまうのでしょうか・・・・・。
このプールに子ども達のにぎやかな声が飛び交っていた光景が目に浮かびます。
潜龍ヶ滝駅付近にも「ボタ山」の表示があります。こちらは、近くの商店の人にたずねてみると、だいぶ前に撤去されたとのこと。やはり・・・ですね。
この付近にあったそうです。
これは江迎炭鉱の猪調商店街の写真です。こちらも多くの商店が建ち並び、多くの人で賑わっていました。
現在、この賑わいを示すものは残っていませんが、付近にある猪調小学校は大変立派な校舎を持っています。
2015年、この街に住んでおられた方から貴重なコメントをお寄せ頂きました。当時の様子を綴った内容は、今となっては貴重な記憶と思いますので、失礼ながら記事に付け加えさせて頂きました。ありがとうございました。
『 昭和24年から昭和28年まで潜龍に住んでいて昭和26年に猪調小学校に入学しました。その頃はマンモス校だったのですね。運動場が校舎を挟んで上と下と二つあり運動会と言えばその地区の最大のお祭りとも言うべきものだった、と今にして思い返すことができます。父が住友石炭鉱業株式会社に勤務していましたので社宅住まい、坂道を降りて行くとバス道路に出てそこに駄菓子屋さんがありました。飴が一つ50銭!!!だったと思います。またそのすぐ近くに鍛冶屋さんもあって馬の蹄鉄を扱っていたような?そのバス道路を歩いて猪調小学校に通いましたが、道路を挟んで小学校と反対側に川があってその横にいつもおじさんが真っ黒な石炭の土俵!?のようなものの上で働いていたような???あれは一体何だったのでしょうか? 弟が潜龍で生まれ、潜龍神社(?)でしたか、にお日明きのお参りに行った時の写真が残っています。神社は高いところにあって、有線放送のスピーカーもそんな高いところにありましたよね。とても嫌だったのは落盤事故のサイレン!!! 初めてこのサイトをみて思い出が泉のように頭の中に湧き出てきました。私はもう70歳のおばあちゃんですが昔のことは次々に思い出されます。今年は兄弟そろって潜龍を再訪するつもりです。これが最後になることと思います。昔の面影がたくさん残っていると嬉しいのですが・・・ 』 |
2016年9月、以下のような貴重なコメントを頂きました。当時のことを探している方々には非常に貴重な資料となるとおもいましたので、リンク貼らせて頂きます。宜しくお願いいたします。
潜龍の炭鉱の昭和30年頃の炭住・社宅、ボタ山、今はなくなった町名がわかる地図が記載されている資料があります。
”北松炭田における炭鉱集落の形成と区間構成に関する事例研究”
で検索してみて下さい。この資料(論文)には図があり、この図に当時の町名、炭住の位置、ボタ山の場所等が記載されていて、昔を思い出すのに役に立つと思います。
これは九州大学、九州大学 大学院人間環境学府の修士論文の
一つです。もし、上記の検索でわからなければ九州大学・大学院人間環境学府
のホームページから探して下さい。
修士論文
都市共生デザイン専攻
野口 雄太
論文題名
”北松炭田における炭鉱集落の形成と空間構成に関する事例研究 -大手2鉱が隣
接して開発した猪調地区を対象として-”
北松炭田における炭鉱集落の形成と区間構成に関する事例研究
「佐世保・北松炭田にあった炭鉱」 記事一覧
*(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は、かつてこの地で暮らされていたご家族の記憶を辿る、一助になればという思いによるものです。ご了承のほどお願い致します。今後は現代の世相を鑑みて、ブログとしてのコンプライアンスをより重視してのぞみたいと考えております。2016年7月)
(『炭業所』と書くのでしょうか?)
近所の人からは『炭業所のおばちゃん』と呼ばれかなりのやり手だったそうです(笑)
母は猪調小学校で給食調理士として勤めていて、その頃は千人を越える児童数でマンモス校だったと。
父は世知原方面の炭鉱で働いていたようです。
記事を読みそんな事を考えていたら、炭鉱って凄く身近なことだったんだなぁと思いました。
貴重な写真をアップしていただき有り難うございます。