10/24、端島小中学校の同窓会メンバー約70人が上陸したそうです。一行は特別な許可を得て、普段は立ち入れない小中学校・校舎前まで歩いたそうです・・・。(10/25付 長崎新聞)
端島小中170
「よかったねぇ・・!」って心から思います。

この校舎は、「年間100日程度しか上陸の見込めない人口島」に立っていたからこそ、閉山後36年後の今も存在しているわけです。

そもそも「炭鉱」という場所は、付近の石炭層を掘り尽くした時点で閉山するのが、逃れようもない運命ですから、長崎県内や筑豊などにあった数百という炭鉱は、「そこに炭鉱があったことすら知られていない」ほど、跡形もなく無くなっています。

炭鉱APではなくても、私の故郷であるAP群は、とうの昔に取り壊され、今では大型商業施設が建っています・・。
今では、写真の上でしか確認することができません。前、図書館で「昭和57年に撮された空撮写真集」にたまたま、そのAP群を見つけることができました。
住吉文化AP2
矢印のピンクの矢印の場所が、私が幼い頃を過ごした「隼棟・3号室」です。写真では、当時の家族の方が白い布団を干しているのがわかります。これだけを見ても、前住人として、うれしい気がします・・・。

そしてやはり、軍艦島や他の炭鉱住宅街と同じく、付近に商店、市場、公衆浴場、映画館などが寄り添うように建っており、我々子ども達にとっては、非常にあたたかな住みやすい街となっていました。

その街は軍艦島風?にすると、こんな感じでしょうか・・・・・
sea171

かつては、こういうあたたかな「軍艦島」のような場所が炭鉱町に限らず、そここにあり、その集合体が都市を形成していたように思います。

一方では、「新興善小学校」のような、長崎市民にとって大きな意味のある校舎などを保存できなかったということは、甚だ残念です。そして尚、浪の平小や活水高・被爆校舎等もやがて我々の目の前から永久に消え去ろうとしています・・・・・。

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