朝、荷物を発送するために車を走らせていると、カーラジオから、中島みゆきの「時代」が流れ、やたらとココロに染みる。思いがけないタイミングで入ってくるのが、ラジオの最大の魅力であるように思う。昔、学生時代に自転車でビンボー旅行をしている時、YHの暗闇の中で小さなラジオから、ふと聞こえてきた曲などは、いまだに覚えている・・・。

ここ数年、思ってきたことなのですが・・・・歴史上の注目度について、カトリック圏の国(仏、ポーランド、スペイン、ポルトガル、イタリアなど)とプロテスタント圏(英、米、ドイツ、オランダなど)では、なぜこうも知名度或いは取り上げられ方?が違うのだろうかと。

たとえば長崎にとって重要であったポルトガルの「ルイス・デ・アルメイダ」とドイツの「シーボルト」についてウィキペディアを中心に簡単にまとめると以下のようになります。

『 ルイス・デ・アルメイダ 』(1525? - 1583)
アルメイダ
『1552年貿易目的で初来日。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。』

・・・長崎においては1567年に初めて長崎に布教した宣教師であり、初めて長崎の地を踏んだ西洋人でした。当時、大村藩領の小さな村にすぎなかった長崎の地に長崎甚左右衛門の助力を得て長崎の街を開いたと言ってもいい人物なのですが、知名度も低く、地名などに名前が残っておらず、今では桜馬場中学校の近くに小さなプレートがあるだけ?といった状況です。

『フィリッツ・フランツ・フォン・シーボルト』(1796 - 1866)
シーボルト

『鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。長崎奉行にはオランダ語に怪しいところがあったのを「山地オランダ人」と偽る(本来はドイツ人である為。オランダに山地はない)。出島内において開業。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本と文化を探索・研究した。また特別に長崎の町で診察することを唯一許され感謝された。日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。1823年4月には162回目にあたるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行。道中を利用して日本の自然を研究することに没頭する。地理や植生、気候や天文などを調査する。1826年には将軍家斉に謁見。江戸においても学者らと交友し、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保(作左衛門)らと交友した。』

・・・以上、シーボルトについては広く知られている通りなのですが、大学名(今はない)から史跡、列車名、ホテル、観光名所などシーボルトをはじめとするプロテスタント圏は大々的に扱われています。

確かにこの両者、時代も背景もあまりに異なっていますが、はたしてここまで扱われ方?に違いがあってもよいものなのでしょうか・・・。政治的・宗教的な思惑が絡んでいたのは昔の話であって、今はもっとリベラルに扱うべきと考えます。
・・・このトピックはまだまだ長くなるので今回はこの辺りでやめます。


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