アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

平成27年度末で閉校となる、東彼杵郡東彼杵町立大楠小学校

平成28年3月末をもって閉校となる、東彼杵郡東彼杵町立大楠(おおぐす)小学校。以前の記事でも紹介しましたが、この学校の校名である「大楠」は地名ではなく、樹木の「大クス」からとられています。

通常は地名が付けられることが多いのだと思いますが、木の名前が付けられるとはいったいどういうわけでしょうか?日本の小学校の黎明期とも言える明治初期の8年に、この学校が創立した時から、その「大楠」の名が付けられています。
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その「大楠」の名の元になったのは、もともと集落のある二ノ瀬集落にあったという巨大なクスノキです。現在は大クスがあったという場所に二代目のクスノキがあります(下画像・学校から坂を少し下った場所)
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しかし、校名の「大楠」は、『梢までの高さが約23.6m。幹の周囲は16.9m、直径は5.4mあり、幹の一部が空洞になっていて、畳八畳が敷け、中に大人15人が立てた』というその桁外れな大きさ・知名度にあやかったわけではありません。
明治27~28年頃、樟脳を採る為にやむなく切り倒された初代大楠を売ったお金でこの小学校を建てることができたからなのです。
つまり、初代大クスは、この学校に姿を変え、ずっと子どもたちを育んできということなのです。
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原爆の遺構は、私たちの住んでいる街そのもの

毎年、多くの修学旅行生や外国人ツーリストの方々が長崎原爆資料館や被爆遺構を訪れてくださっているようで、市民として、それは大変うれしいことだと思います。
しかし、皆さんタイトなスケジュールの中での訪問となることが多いせいでしょうか、資料館の展示やパンフレットに記載されている遺構だけが、現在残されているものだと理解されているように思えて仕方ありません。
「広島の原爆ドーム」のようなシンボル的な遺構が長崎には無い分、訪問者には見えづらい点はよく理解できますが、投下後70年以上(2016年現在)経ったとは言え、『 3000℃の熱線、秒速440mの衝撃波、人体を破壊し尽くす放射線 』によって、原子野と化した場所が、そう簡単に姿を隠しきるはずがありません。

下の写真は、原爆投下後の山里小学校と、浦上川に架かる本大橋一帯を写したものです。
(説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを広く伝える為です。ご了承のほどお願い致します)
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〇で囲んだ部分には、河原に降りるための階段のようなものが写っています。爆心から、この場所までの距離は760mあまり。上記のような熱線や衝撃波、放射線の容赦なく降り注いだ場所ということになります。
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この場所は現在、どのような状況になっているのでしょうか・・・・

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 ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」は、夢と現実を知る少年期から青年期を描いた名作

カナダ出身のアーティスト、ジョニ・ミッチェルが作った「Both sides, now」は切なくも美しいメロディーで、学生時代から好きな楽曲のひとつでした。
歌詞の内容についてはこれまで深く考えようとも思わなかったのですが、現代の世界の状況やその中に置かれた子ども達、若者のことを考えるようになってから、この邦題「青春の光と影」という楽曲が気にかかるようになり、内容をつぶさに調べてみようと思いました。

やたら韻を踏んでいるのと、やや感覚っぽい内容である為に、直訳することの難しい歌詞だと思ったのですが、私の個人的な解釈として、標題のように『 理想と現実を知る少年期から青年期の心情を描いた楽曲 』として訳詞を考えてみました。
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(*本記事に使用している画像は全て著作権フリーのもので、内容とは直接関係がありません。)

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地域から消えてゆく子どもたちの声~南島原市立見岳小学校、龍石小学校、慈恩寺小学校、長野小学校、布津小第一分校、第二分校

少子高齢化。同時に進行する過疎化。それは自治体消滅が明示されている本県において、年々深刻さを増しているように思われます。
南島原市。伝説の巨人、みそ五郎の見つめる雲仙山麓のこの地に、本年度27年度末をもって、6校(受け入れ校を含めると8校)もの小学校が、地域から消えてしまいます。
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本来であれば、長い歴史を持つそれぞれの学校を取材し、ていねいに記事を書かなければならないことは重々承知していますが、あまりの多さにそれができずにおります。

そこで、今回は「学校があった頃の音=子ども達の声々」を少しでも残したいと思い、短時間ですが動画を撮りました。

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みそ五郎どんの高岩山をガイドするのは、かつて主のいなかったビーグル犬・大五郎

南島原市・高岩山には「みそ五郎どん」という心優しき大男の伝説があります。
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その伝説とは・・・・・

『 昔むかし、西有家で一番高い高岩山に大きな男が住んでおった。この大男、人が良く、ちから持ちでだれやかれやから好かれておったそうな。みそ五郎どんは畑仕事の手伝いをしたり、山を切り開いて、畑を造ったりして、みそを分けてもらっておった。 高岩山を住みかにしとったので、朝起きて雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗うのを日課にしておった。 そして、唯一の楽しみは雲仙岳に座り、高岩山の八間岩に足をのせて、九州の山脈、遠くの海を眺めることじゃった。そのころ遊んだお手玉石や足跡のくぼみが、今も高岩山に残っている。今日も、大きな鍬をかついで、山を切り開いて、畑にする仕事をしておった・・・・・ 』

 というもの。人が良くて、力持ち。おまけに働き者・・・という、いかにもこの地方らしい、とても良い人物なのです。(画像は、西有家町にある南島原市役所前のみそ五郎どんの像)
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みそ五郎どんゆかりの高岩山は、南島原を見下ろす高峰。その高岩山の麓にあるのが塔ノ坂(とうのさか)という小さな集落で、この塔ノ坂集落には、みそ五郎どんの人柄にも負けない、大変性格が良く利口な「大五郎」という犬がおります。(画像は、高岩山と塔ノ坂集落)
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かえって日本人への親近感を高めることとなった雲仙地獄でのキリシタン迫害

島原半島の中央にそびえる雲仙岳(正しくは普賢岳、国見岳など三峰五岳の雲仙連峰或いは山体)。
島原半島のシンボルであり、かつ国立公園第一号ともなった有数の観光地であるのは、有名なところです。
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明治・昭和期の浮世絵版画師、川瀬 巴水が描いた雲仙、「天草より見たる 雲仙」は、静かなこの地の風情をよく表しています。
かつてはキリシタンの郷として栄えた後、島原の乱(或いは島原・天草の乱)により一時は荒廃したこの地方が、2015年の今、再び世界遺産を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部として注目を浴びようとしているという事を想うと、悠久の時の流れを感じるというのか、感慨深いものがあります。
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「子どもの不登校」を克服する為のヒント ~ 林 礼子著「母さん、早く学校に行きたいよう!」

「子どもの不登校」・・・・ 親(保護者)にとって、この言葉は大変に重く、苦しい響きを持つものでしょう。


今朝、仕事先の近くで、路上に立ちすくむ小学1年生(黄色い通学帽とランドセルカバーでそれとわかります)の男の子と父親らしき人物を見かけました。何となく気になり、少し離れた場所に車を停め、しばらく様子をうかがっていたのですが、どうやら登校を嫌がる子どもと何とか行かせようとする父親であることがすぐにわかりました。

父親は険しい表情で何かを子どもにまくしたてたり、或いは手を引っ張ったりしますが、男の子は数歩歩いては立ち止まる、といった具合で、親子の置かれた状況が、かなり厳しいことは明らかでした。

実は長崎の街であちらこちら仕事をしていると、このような姿に出くわすことは、そう稀な事ではありません。少子高齢化が叫ばれ、自治体の存続さえ危ういと言われ続けているこの時代においてであるにもかかわらずです。

この父親にとって、ほんの数ヶ月前には、真新しいランドセルを背負って期待に胸弾ませていた男の子と、それを笑顔で見つめて自分の姿というものは、まるで「幻」のようであったと感じられるに違いありません・・・。


(*画像はイメージであり、内容とは一切関係ありません)

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「不登校」、その始まりはある日突然やって来たかのように思え、何が直接的な原因なのか判らず、どこに責任を求めても解決策は見出せず、何を手がかりに進んでいけば出口に近づくのかさえはっきりしません。

そもそも時が経てばよい方向へ向かうという何の保証すらなく、毎日続く心痛にいつまで耐えなければならないのかという恐怖にさいなまれることになります。

その間、他の元気そうな子ども達と比べて、家の中でひっそりと過ごす我が子の姿を見なければならないことは、「断腸の思い」そのものでしょう。


自分の教師時代を振り返っても、担任するクラスに不登校の生徒がいたことは本当に辛いことでした。

「今日こそは全員そろうかも」と期待しつつ、教室に入ると、やはりポツンとひとつ空いている机。・・・・何かしら楽しい事をしていても、その空いた机のことが頭から離れることはありませんでした。


(*画像はイメージであり、内容とは一切関係ありません)

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深い情愛で結ばれた親子の記憶が保存してある二畳の家 ~ 永井博士親子の如己堂

長崎市名誉市民外一号である、故・永井 隆博士が亡くなる約3年前から親子三人で暮らしていた住居はたった二畳一間の家。・・・長崎に暮らす自分にとっては大いに誇らしいことであるし、その家「如己堂(にょこどう)」を今、未来ある子ども達が修学旅行の傍ら立ち寄って見学している姿というのは、なんともうれしいものです。


その思いは、名誉市民になるような人がこのような謙虚な暮らしをしていたという安堵感からくるものでも、今裕福な暮らしをする人を妬む気持ちの裏返しからくるなどという、ケチくさい了見からでもありません。


この二畳を目の当たりにする時、そこにあふれんばかりの親子の情愛が詰まっていたことを今も尚、しっかりと感じることができ、それは広さや造りの立派さとは無関係であることを再確認させてくれるからなのです。


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如己堂の名の由来となった「如己愛人」の書。これは、新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉からとられています。

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「ロード・オブ・ザ・リング」の原作者J・R・R・トールキンの才能のルーツはシングルマザーで早世した母の家庭教育にあった


2015年現在、映画化された「ホビットの冒険」シリーズと「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」シリーズの世界的なヒットについては、今更ここで繰り返し述べる必要もないと思いますが、その原作者であるJ・R・R(ジョン・ロナルド・ロウエル)・トールキンについては、さほど知られていないように思います。
特にその生育暦については、現代においても尚、参考になる部分が少なくないと思い、稚拙さはまぬがれないものの記事にて紹介してみたいと思いました。

↓は30年ほど前に買った、「指輪物語」の文庫本です。この時初めて目にしたトールキンの横顔は、「何となくいい笑顔をしたお年寄りだなぁ・・・」ぐらいのものでしかありませんでした。
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J・R・R・トールキンが生まれたのは、1892(明治25)年のオレンジ自由国、ブルームフォンテーン。(注:現在の南アフリカ共和国の一部。この時代はイギリスがオランダ系移民等であるボーア人(ブール人もしくはアフリカーナ)との戦争に敗れた第1次ボーア戦争から約10年が経過していた頃になります)
ドイツ系イギリス人で銀行員であったアーサー・トールキンと、やはり同じイギリス人であったメーベル・サフィールドの間の第一子としてこの世に生を受けています。続きを読む

さよなら長崎最古級の駅舎、 島原鉄道・南島原駅

2015年2月15日より取り壊し工事に入った島原鉄道・南島原駅。南島原市にある駅ではなく、島原市の中心地(島原駅から2つ目)に近い駅で、その駅舎はなんと大正2年です。
明治30年の建築である旧早岐駅・駅舎が現在どうなっているか正確な情報がわかりませんが、いずれにしても長崎県内最古級の現役駅舎であったことは事実です。
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同駅の沿革・歴史については、ちょうど駅舎内に掲示してあった案内板に詳しくでていましたので、そちらをご参照ください。
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案内板にも記してありますが、南島原駅は大正2年9月24日に「湊新地駅」として開業。その後大正7年に「島原湊駅」、昭和35年に「南島原駅」と改称して現在に至っています。
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ここは港(島原内港)が栄えていた頃の玄関駅であり、かつ車輌基地という役割を果たしていたわけですね。
この堂々とした造りを見ると当時の賑わいの様子がありありと浮かんできます。
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平成26年度末で閉校となる南島原市立梅谷小学校・白木野小学校・古園小学校・吉川小学校

2014年の4月にNHKで「廃校が招いた過疎」という特集が放送されました。番組をあらためて見直してみるまでもなく、「小中学校の廃校」→「子どもを持つ若い世代の流出」→「人口減少」→「医療機関や商業施設等の閉鎖」→「更なる人口減少」→「急激・深刻な過疎化の進行」という図式は誰にでも理解できますが、更に番組のデータファイルサイト、「DETA FILE.JAPAN」では、『教育効果を上げる為の統廃合すらも限界にくる!』と予想しています。  

それでも尚、閉校ラッシュが続いているのは、財政問題やその他の事情が存在するということなのでしょうが、毎年何校も閉鎖されていくこの「速さ」にはいささか恐怖すら覚えます。

今回はタイトル通り、2014年の秋、「平成26年度をもって統廃合の為閉校となる南島原市の4小学校(正確には5小学校となる)を巡り、少しだけ写真を撮らせてもらってきました。残念なことには、この日、同地区の校長会が開かれていたらしく、まったく校長先生にお会いすることができなかった為、十分なお話の取材が叶いませんでした。
したがってまったく深み・掘り下げの無い、ただ外観写真を並べただけの実に粗野な内容の記事となっており、関係者様には無礼千万であると、ただただ恐縮の限りですが、それでも遠く故郷を離れられている方には写真を眺めるだけでも、いくらか役に立つこともあろうかと思い、記事にしました。その点をどうぞご了承下さい。

まず初めに訪れたのが、南島原市立梅谷(うめだに)小学校です。 (南島原市南有馬町己2889番地)

梅谷校の開校は明治19年。「清谷学校」の名で、1棟の倉庫からスタートしています。その後、「簡易古園小学校」「古園尋常小学校梅谷分校」「古園尋常小学校梅谷分教場」「南有馬町古園国民学校梅谷分教場」「南有馬町立梅谷小学校」と名称を変え、移転・改築を繰り返して今に至っています。

現在の正面玄関です。靴箱に置いてある靴の数でおおよその生徒の数が想像できます。

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正面の掲示板、左下に掛けてある写真は、この古写真です。
これは、昭和6年に撮られた、梅谷分教場の落成式の記念写真です。写真に写る人たちは紋付羽織袴やスーツに身を包み誰もが晴れやかな顔をしています。
地元の子ども達が通う学び舎が段々とよくなってきたことへの喜びがひしひしと伝わってきます。
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民俗学者・宮本 常一さんと対州馬

私が尊敬してやまない故・民俗学者 宮本 常一さんの著書「 私の日本地図 ⑮ 壱岐・対馬紀行 」。この本との出会いのきっかけとなったのが私の場合、「対州馬」でした。新聞の連載で対州馬の写真資料を探していて目に付いたのがこの本でした。

結局、求めていたような写真資料は得られなったのですが、その文章と宮本さんの人間性・人格の魅力に曳きこまれ、気がつくと愛読書の一冊になっていました。
この書を開く度に、厳原(いずはら)、浅藻(あざも)、豆酘(つつ)、曲(まがり)、千尋藻(ちろも)、名方ヶ浦(なぼがうら)等・・・・と頭の中で宮本さんの足跡を辿る対馬の旅が繰り返されてきました。それから私にとって「対馬」は宮本さんが親しんだ、言わば憧れの地となりました。
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残念ながら宮本さんが直接、対州馬について述べた文は無いのですが、今回は同書の中から垣間見える、「宮本 常一さんと対州馬」という接点に焦点を絞ってスポットを当ててみました・・・。

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明治期に敷設されたJR大村線と長崎本線旧線は、鉄道人達の熱きスピリットと長崎の歴史を今に伝える貴重な遺産

平成26年現在、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が大いに注目されています。名称がそのまま内容を表していますが、明治期における急激な近代化を成し遂げる要因となった「製鉄所」「造船所」「炭鉱」「紡績工場」「砲台」「教育施設」「軍養成所」などがその構成要素であり、とりわけ大陸に近く、採炭地でもあった九州西部には多くの「構成遺産」が残されています。

言うまでも無く「鉄道」は、それらの構成要素をつなぐ重要な存在だったことは疑う余地がありません。船舶もまた重要な役割を果たしたとは思いますが、天候に左右されにくいという点を考えると、当時の鉄道には及ばなかっただろうと思います。

さて、九州において明治20年に創設された「九州鉄道」が、早岐-長崎間を開通させたのが、明治31年。今回は非常に大まかではありますが、その大村線と長崎本線・旧線の中に鉄道創始期の名残りと長崎県の歴史を辿ってみることにしました。

出発は大正14年に建てられた「道ノ尾駅」からです。
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この駅は長崎に原爆が投下された直後、救援列車の最前線駅となりました。当時の駅前には多くの重篤・瀕死の負傷者が自力及び他者によって運びこまれ、さながら地獄絵図のようであったと伝えられています。
被爆時、救援の最前線駅となった道の尾駅」(内部リンク)
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原爆投下時には、この辺りにも民家の屋根を飛ばしたりするほどの爆風が吹いており、その時の柱の歪みは今でも確認することができます。この駅舎は現在、何の指定もありませんが、貴重な被爆建築物です。駅前を流れる小川は当時、火傷を負い水を求めた負傷者が折り重なるようにして亡くなった「命の川」であり、街道筋に立つ大クスは被爆木は救護所を目指した負傷者や救護者達の生死のドラマを見続けてきたものです。現在駅舎と大クスに掲げてある案内板は滑石中学校生徒会が設置したものだけです。
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ちょうど道ノ尾駅に懐かしい色合いのディーゼル・カーが停まっていました。行き先は「早岐」です。これからこの列車が走るルートを辿ることになります。
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映画「空の大怪獣ラドン」の中に見る、日鉄鹿町炭鉱・再編


前回の記事が画質が粗く枚数も不十分であった為、「再編」としました。
この記事の目的は、①かつて鹿町鉱で生活されていた方やその親族の方に当時の様子を振り返って頂きたい②「ヤマは、ひと家族」と言われた温かなコミュニティーが存在したことを地元の方や子ども達に知ってもらい多少でも振興の一助となって欲しい、の2点に尽きます。
そういう観点で読んで頂ければ有難い限りです。

「空の大怪獣ラドン」は昭和31年12月26日に公開された東宝映画です。したがって、これから紹介する旧北松郡鹿町町・日鉄鹿町炭鉱(加勢地区)の風景は、同年の春から夏ごろにかけて撮影されたのではないかと推察されます。

【 平成26年現在でも目視確認できるもの 】

①ボタ山

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だいぶ傾斜が緩やかになっていますが、2つの峰の形がまだ確認できます。(現在ここは車道が走っています)
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②坑口(東坑・ラドンでロケが行われた場所)

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草木に覆われてしまっていますが、しっかりとした造りは健在であるように見えます。(東坑は昭和3年に開坑されています)
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当時この坑口から外を眺めると、このように見えたはずです。
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佐々炭鉱再訪 ~ 山間に暮らしの跡を探して

もうかなり前のことになってしまいましたが、佐々町の佐々鉱跡を少し歩きましたので紹介したいと思います。内容としては、このブログのコンセプトでもあるのですが、「正確な施設・設備の記録」といういうよりは、『当時の生活の面影を辿る』、というものです。その為、風景や画像を通して連想することも多く含まれておりますので、そういう記事として読んで頂けましたらと思います。
佐々鉱については、一度概略を載せていますので、そちらを一読して貰えばと思います。

同鉱の写真は2014年現在で私は下の一枚しか発見できていません。この写真から想像できることは、「坑道口は山の上の方にあり、掘り出した石炭は、いったん小川沿いの道へ降ろし、そこから更に鉄道方面へ輸送していたであろう」ということです。右下の小屋の下部にポケット(貯炭施設)が見えていることから考えると、降炭には、右上の高い場所まで運んだ後、傾斜を利用してポケットまで落としていたのかもしれません。そうなると左側の軌道は人員の輸送に使われていたものなのでしょうか?全ては想像の域を出ません。
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現在の同地はどうなっているのかと思い、この施設があった辺りを登ってみることにしました。いつの時代のものかは不明ですが、深い山にしてはがっちりとしたコンクリートが敷いてあります。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。29年 あさひ日本語学校・校長職を兼任。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


以下は、すべてアトリエ隼(対州屋)のサービスです。




対州屋~写真のデジタル化




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