アトリエ隼 仕事日記

長崎の遺産とも言うべき炭鉱・教会・対州馬など、「よかもん」をご紹介いたします・・・

平成25年2月17日に行われた、西海市立雪浦小学校幸物分校の閉校記念式典

タイトル通り、平成25年2月17日に行われた、西海市立雪浦(ゆきのうら)小学校幸物(こうぶつ)分校の閉校記念式典及び惜別の会に出席させて頂いてから、4年以上が過ぎました。
幸物分校最後の生徒となった4人の児童のうち、6年生だった2人は2017年現在、高校2年生になっているはずです。
あらためて分校のことを思い出すこともあろうかと思い、記事を書いてみようかと思い立ちました。

初めて幸物分校を訪れたのが、2013年の1月。よりによって小雪の舞う日でしたが、標高の高い山中にある同分校には、けっこうな雪が積もっていました。
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何のアポもなしに訪ねたのに、その時職員室におられた教頭先生は、快く受け入れてくださいました。

そして、校内を取材・撮影後、お礼の挨拶を述べると、教頭先生は私に対し、「2月に開かれる閉校記念式典にいらっしゃいませんか」と。 こんなことって、あるでしょうか? 突然やって来た、どこの馬の骨とも判らないような人間に対して!!
思いがけないお誘いに「ぜひ、伺います」と返事して帰ったのですが、数日後ちゃんと招待状が送られてきました。
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ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑

説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝えるです。ご了承のほどお願い致します。

長崎市浦上地区にある西町踏み切り。何気ない風景の中を多くの人や車が通りすぎていきます。しかし、この画像の中に「ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑」があるのです。
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路面電車の軌道跡である勝山市場にあったお婆ちゃんの小さなお店、閉店

タイトル通り、路面電車の軌道跡である斜面に出来た勝山市場にあった、なじみのお婆ちゃんのお店が、いつの間にか、ひっそりと閉店していました。
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久しぶりに、あのお婆ちゃんのお店でパンを買って食べよう」と、久しぶりにやって来たのですが・・・・
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数年前に撮ったお店。
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三井三池炭坑では、坑内馬として対州馬が非常にむごい使われ方をした

昭和初期頃まで、各炭坑の坑道内で使われていたという「坑内馬」。その坑内馬に関する記録はほとんど存在しないのですが、北部九州に炭田が分布していたことと、馬の体格と気質、能力を考えると、対馬産の対州馬が使われないはずは無いとずっと思っていました。

そしてその悪い予感は残念ながら一冊の本、「坑内馬と馬夫と女坑夫」 武松輝男著 創思社出版によって証明されたばかりではなく、その実態たるや身の毛もよだつような残虐かつ悲惨なものであったということが明らかになりました。
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『 坑内馬ネー、私はそのときはまだ小さかったんで詳しいことはわからんが、対州馬、対馬の馬ですたいな、それと島原馬を取り扱っていたことは知っとります。背の高さは五寸五寸と言っとりました。四尺五寸のことで、今の寸法で136センチぐらいですたいな。こまぁか馬でしたバイ・・・・ 』
 
これは祖父が坑内馬の売買を生業にしていたという方の証言です。大資本の三井三池炭坑では、昭和の初め頃まで、坑内の石炭運搬に対州馬と島原馬(現在は絶滅)が使われていたということです。

証言には「島原馬」ともありますが、島原馬は馬車などを曳く、割と大きな馬だったと聞いたことがあるので、天井が低く、勾配がある足場の悪い坑内作業を考えると、やはり対州馬が主に使われたのではないでしょうか。


「粗食に耐え、小柄の割に力が強く、性格は温厚で従順」この特質が炭坑にとってはうってつけだったということですね。

何千(或いは何万?)という馬たちは、馬たちは一度坑内に下げられると、二度と地上に上げられることはなく、気温40℃、湿度95%、ガスや細菌の蔓延する、昼も夜もない、季節もない暗闇の中で平均2年あまりという短い年月で、弱り果て、苦しんで苦しみ抜いて死んでいっています。

作業中の状況たるや、悲惨なもので、同書内の表現を借りると、以下のようなものとなります。

『 一頭の馬が一回に運ぶ距離は、片道で307m、これを炭函(車)を曳いて28分費やしている。 10mの距離を1分もかかる。坑内というところは底盤は殆ど岩盤で、しかも凹凸があって平坦な道筋ではない。レールにしても、いま私たちの目の前にあるようなあの頑丈なものでもない。炭車の車輪もベアリングの車軸ではない。 坑道の要所要所に設けられた燈火にしても、今のような昼光色ではない。そういう軌道上を、背丈の低い矮小馬が重たい炭函を、10mを1分も費やしてあえぎあえぎ曳いた。 』

『 坑内はですな。ひらったか道ばかりじゃなか。上がり坂もあるが、下り坂もありますタイ。 上り坂を馬に曳かせて上る時には”ソラー!”チ、馬に気合いバ入れんといかん。 そんとき、手で馬の尻を叩こうもんなら、馬も人も汗ビッショリになっとるもんで、汗が飛び散ってワタシン顔にかかっとデス。そいけん私は竹ヒゴ持っといて、それで馬ン尻バ叩こりました。 馬ン口には白かねばっこか泡ンつこりました。馬はきつかったっでしょナ。 (中略)
馬に曳かせんと、馬方は金にならんもんですケン、少々くたびれとるとわかったっチ、叩いてでん曳かせよりました。ハイ 』

馬たちは、唯一食事だけが楽しみだったと思うのですが、その食料さえ馬夫たちにピンハネされて、ろくに食べられなかったといいます・・・・

平均2年で死んでいくということは、たった数ヶ月で衰弱死したり事故死したりする馬も多かったのでしょう。ならばある一定期間が過ぎたら、地上に上げて回復させれば良いのではないかと思いますが、そういうことはいっさいなく、死ねばその分をまた補充しただけということですから、坑内馬として使われた対州馬たちは、「生き物」としてでなく、「働き手」でもなく、ただの「取り替えの効く消耗品」として扱われたのだということがよくわかります。

人類史上、これほどにむごたらしい動物虐待は他にないかもしれません。



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坑内で死んでいった馬たちの分までとは言いませんが、今、絶滅寸前まで追い込まれながらも、健気に生きる対州馬たちには、少しでも季節のものをいろいろと味わわせてやりたいと思うのです・・・・・

日の浦炭鉱が存在した地 (松浦市福島町)


松浦市福島町塩浜免にかつて存在した、日の浦炭鉱。下は明治42年に撮影されたという日の浦炭鉱の写真です。
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さすがに明治時代、茅葺屋根の長屋が連なっているのが古の時代を偲ばせます。
2016年現在の同地は下のようになっています。同じように俯瞰で撮影したいと思ったのですが、昔の写真はボタ山から撮影したのか、同じような角度で撮影できる場所はありませんでした。
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上の場所から山側を向くとこのような感じです。運動公園のようになっていて、かつてこの場所に炭鉱があったなんて、もう地元の方ですら知らないのではないでしょうか・・・。
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プロフィール:江島 達也
 長崎市泉町生まれ。 私の「故郷」は戦後間もない頃造られた、お風呂もないアパートで棟の名が「隼(はやぶさ)」。それが絵師としての屋号です。群馬大学教育学部美術科卒。 大学の4年間、実にボンクラな学生でしたが、4年目は仲間と自主ゼミを立ち上げJ・デューイやM・モンテッソーリなどの教育学を学びました。この頃、前橋市内にあったフリースクール(オルタナーティブ・スクール)をつくる会などに参加しまして、この時期の様々な社会人との出会いが、その後大きな影響となりました。
包装機械メーカーの東京営業所に入社、8ヵ月後退社。平成2年より長崎県教員として県内各校に勤務しました。 平成17年末退職後、フリーのイラストレーターとして活動開始。
平成23年3月 「僕の子ども絵日記~ながさきの四季」(長崎新聞社)出版 
平成24年 「長崎の坂道で対州馬の荷運び再現」プロジェクト。25年 再び長崎市で対州馬による荷運び業再開を目指し「對州屋」として活動開始。
〒852-8065
長崎市横尾町
tek/fax095-857-5236


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